皇后美智子さま、傘寿、80歳の誕生日・・・そしてメッセージ

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皇后陛下、美智子さま、今日がお誕生日だったんですね。

無事に傘寿を迎えられたことをただお祝い申し上げるだけでなく、現下の日本の政治・経済・社会の惨状を鑑みるならば、昨年と今年とそれぞれ発せられたメッセージを、私たちは行間の意味まで読むように一言一句、しっかり拝聴しないといけませんね。

皇后さま:記者会へのご回答(全文)…80歳傘寿【毎日新聞 2014年10月20日】

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問1 このたび傘寿を迎えられたご感想とともに、これまでの80年の歳月を振り返られてのお気持ちをお聞かせください。

答 ものごころ付いてから、戦況が悪化する十歳頃までは、毎日をただただ日向で遊んでいたような記憶のみ強く、とりわけ兄や年上のいとこ達のあとについて行った夏の海辺のことや、その人達が雑木林で夢中になっていた昆虫採集を倦きることなく眺めていたことなど、よく思い出します。また一人でいた時も、ぼんやりと見ていた庭の棕梠(しゅろ)の木から急にとび立った玉虫の鮮やかな色に驚いたり、ある日洗濯場に迷い込んできたオオミズアオの美しさに息をのんだことなど、その頃私に強い印象を残したものは、何かしら自然界の生き物につながるものが多かったように思います。

 その後に来た疎開先での日々は、それまでの閑(のど)かな暮らしからは想像も出来なかったものでしたが、この時期、都会から急に移って来た子どもたちを受け入れ、保護して下さった地方の先生方のご苦労もどんなに大きなものであったかと思います。

 戦後の日本は、小学生の子どもにもさまざまな姿を見せ、少なからぬ感情の試練を受けました。終戦後もしばらく田舎にとどまり、六年生の三学期に東京に戻りましたが、疎開中と戦後の三年近くの間に五度の転校を経験し、その都度進度の違う教科についていくことがなかなか難しく、そうしたことから、私は何か自分が基礎になる学力を欠いているような不安をその後も長く持ち続けて来ました。ずっと後になり、もう結婚後のことでしたが、やはり戦時下に育たれたのでしょうか、一女性の「知らぬこと多し母となりても」という下の句のある歌を新聞で見、ああ私だけではなかったのだと少しほっとし、作者を親しい人に感じました。

 皇室に上がってからは、昭和天皇と香淳皇后にお見守り頂く中、今上陛下にさまざまにお導き頂き今日までまいりました。長い昭和の時代を、多くの経験と共にお過ごしになられた昭和の両陛下からは、おそばに出ます度に多くの御教えを頂きました。那須の夕方提灯に灯を入れ、子どもたちと共に、当時まだ東宮殿下でいらした陛下にお伴して附属邸前の坂を降り、山百合の一杯咲く御用邸に伺った時のことを、この夏も同じ道を陛下と御一緒に歩き、懐かしみました。

 いつまでも一緒にいられるように思っていた子どもたちも、一人ひとり配偶者を得、独立していきました。それぞれ個性の違う子どもたちで、どの子どもも本当に愛(いと)しく、大切に育てましたが、私の力の足りなかったところも多く、それでもそれぞれが、自分たちの努力でそれを補い、成長してくれたことは有難いことでした。子育てを含め、家庭を守る立場と、自分に課された務めを果たす立場を両立させていくために、これまで多くの職員の協力を得て来ています。社会の人々にも見守られ、支えられてまいりました。御手術後の陛下と、朝、葉山の町を歩いておりました時、うしろから来て気付かれたのでしょう、お勤めに出る途中らしい男性が少し先で車を止めて道を横切って来られ、「陛下よろしかったですね」と明るく云い、また車に走っていかれました。しみじみとした幸せを味わいました。

 多くの人々の祈りの中で、昨年陛下がお健やかに傘寿をお迎えになり、うれしゅうございました。五十年以上にわたる御一緒の生活の中で、陛下は常に謙虚な方でいらっしゃり、また子どもたちや私を、時に厳しく、しかしどのような時にも寛容に導いて下さり、私が今日まで来られたのは、このお蔭であったと思います。

 八十年前、私に生を与えてくれた両親は既に世を去り、私は母の生きた齢(とし)を越えました。嫁ぐ朝の母の無言の抱擁の思い出と共に、同じ朝「陛下と殿下の御心に添って生きるように」と諭してくれた父の言葉は、私にとり常に励ましであり指針でした。これからもそうあり続けることと思います。

問2 皇后さまは天皇陛下とともに国内外で慰霊の旅を続けて来られました。戦争を知らない世代が増えているなかで、来年戦後70年を迎えることについて今のお気持ちをお聞かせください。

答 今年八月に欧州では第一次大戦開戦から百年の式典が行われました。第一次、第二次と二度の大戦を敵味方として戦った国々の首脳が同じ場所に集い、共に未来の平和構築への思いを分かち合っている姿には胸を打たれるものがありました。

 私は、今も終戦後のある日、ラジオを通し、A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いた時の強い恐怖を忘れることが出来ません。まだ中学生で、戦争から敗戦に至る事情や経緯につき知るところは少なく、従ってその時の感情は、戦犯個人個人への憎しみ等であろう筈はなく、恐らくは国と国民という、個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということに対する、身の震うような怖れであったのだと思います。

 戦後の日々、私が常に戦争や平和につき考えていたとは申せませんが、戦中戦後の記憶は、消し去るには強く、たしか以前にもお話ししておりますが、私はその後、自分がある区切りの年齢に達する都度、戦時下をその同じ年齢で過ごした人々がどんなであったろうか、と思いを巡らすことがよくありました。

 まだ若い東宮妃であった頃、当時の東宮大夫から、著者が私にも目を通して欲しいと送って来られたという一冊の本を見せられました。長くシベリアに抑留されていた人の歌集で、中でも、帰国への期待をつのらせる中、今年も早蕨(さわらび)が羊歯(しだ)になって春が過ぎていくという一首が特に悲しく、この時以来、抑留者や外地で終戦を迎えた開拓民のこと、その人たちの引き揚げ後も続いた苦労等に、心を向けるようになりました。

 最近新聞で、自らもハバロフスクで抑留生活を送った人が、十余年を費やしてシベリア抑留中の死者の名前、死亡場所等、出来る限り正確な名簿を作り終えて亡くなった記事を読み、心を打たれました。戦争を経験した人や遺族それぞれの上に、長い戦後の日々があったことを改めて思います。

第二次大戦では、島々を含む日本本土でも百万に近い人が亡くなりました。又、信じられない数の民間の船が徴用され、六万に及ぶ民間人の船員が、軍人や軍属、物資を運ぶ途上で船を沈められ亡くなっていることを、昭和四十六年に観音崎で行われた慰霊祭で知り、その後陛下とご一緒に何度かその場所を訪ねました。戦後七〇年の来年は、大勢の人たちの戦中戦後に思いを致す年になろうと思います。

 世界のいさかいの多くが、何らかの報復という形をとってくり返し行われて来た中で、わが国の遺族会が、一貫して平和で戦争のない世界を願って活動を続けて来たことを尊く思っています。遺族の人たちの、自らの辛い体験を通して生まれた悲願を成就させるためにも、今、平和の恩恵に与(あずか)っている私たち皆が、絶えず平和を志向し、国内外を問わず、争いや苦しみの芽となるものを摘み続ける努力を積み重ねていくことが大切ではないかと考えています。

問3 皇后さまは音楽、絵画、詩など様々な芸術・文化に親しんで来られました。皇后さまにとって芸術・文化はどのような意味を持ち、これまでどのようなお気持ちで触れて来られたのでしょうか。

答 芸術−質問にある音楽や絵画、詩等−が自分にとりどのような意味を持つか、これまであまり考えたことがありませんでした。「それに接したことにより、喜びや、驚きを与えられ、その後の自分の物の感じ方や考え方に、何らかの影響を与えられてきたもの」と申せるでしょうか。子どもの頃、両親が自分たちの暮らしの許す範囲で芸術に親しみ、それを楽しんでいる姿を見、私も少しずつ文学や芸術に触れたいという気持ちになったよう記憶いたします。戦後、どちらかの親につれられ、限られた回数でも行くことの出来た日比谷公会堂での音楽会、丸善の売り場で、手にとっては見入っていた美しい画集類、父の日当たりのよい書斎にあった本などが、私の芸術に対する関心のささやかな出発点になっていたかと思います。

 戦後長いこと、私の家では家族旅行の機会がなく、大学在学中か卒業後かに初めて、両親と妹、弟と共に京都に旅をする機会に恵まれました。しかし残念なことに、私は結婚まで奈良を知る機会を持ちません。結婚後、長いことあこがれていた飛鳥、奈良の文化の跡を訪ねることが出来、古代歌謡や万葉の歌のふるさとに出会い、歌に「山」と詠まれている、むしろ丘のような三山に驚いたり、背後のお山そのものが御神体である大神(おおみわ)神社の深い静けさや、御神社に所縁(ゆかり)のある花鎮(はなしず)めの祭りに心引かれたりいたしました。学生時代に、思いがけず奈良国立文化財研究所長の小林剛氏から、創元選書の「日本彫刻」を贈って頂き、「弥勒菩薩」や「阿修羅」、「日光菩薩」等の像や、東大寺燈篭の装飾「楽天」等の写真を感動をもって見たことも、私がこの時代の文化に漠然とした親しみとあこがれを持った一因であったかもしれません。

 建造物や絵画、彫刻のように目に見える文化がある一方、ふとした折にこれは文化だ、と思わされる現象のようなものにも興味をひかれます。昭和四十二年の初めての訪伯の折、それより約六〇年前、ブラジルのサントス港に着いた日本移民の秩序ある行動と,その後に見えて来た勤勉、正直といった資質が、かの地の人々に、日本人の持つ文化の表れとし、驚きをもって受けとめられていたことを度々耳にしました。当時、遠く海を渡ったこれらの人々への敬意と感謝を覚えるとともに、異国からの移住者を受け入れ、直ちにその資質に着目し、これを評価する文化をすでに有していた大らかなブラジル国民に対しても、深い敬愛の念を抱いたことでした。

 それぞれの国が持つ文化の特徴は、自ずとその国を旅する者に感じられるものではないでしょうか。これまで訪れた国々で、いずれも心はずむ文化との遭遇がありましたが、私は特に、ニエレレ大統領時代のタンザニアで、大統領は元より、ザンジバルやアルーシャで出会った何人かの人から「私たちはまだ貧しいが、国民の間に格差が生じるより、皆して少しずつ豊かになっていきたい」という言葉を聞いた時の、胸が熱くなるような感動を忘れません。少なからぬ数の国民が信念として持つ思いも、文化の一つの形ではないかと感じます。

 東日本大震災の発生する何年も前から、釜石の中学校で津波に対する教育が継続して行われており、三年前、現実に津波がこの市を襲った時、校庭にいた中学生が即座に山に向かって走り、全校の生徒がこれに従い、自らの生命を守りました。将来一人でも多くの人を災害から守るために、胸の痛むことですが、日本はこれまでの災害の経験一つ一つに学び、しっかりとした防災の文化を築いていかなくてはならないと思います。

 歓び事も多くありましたが、今年も又、集中豪雨や火山の噴火等、多くの痛ましい出来事がありました。犠牲者の冥福を祈り、遺族の方々の深い悲しみと、未だ、行方の分からぬ犠牲者の身内の方々の心労をお察しいたします。又この同じ山で、限りない困難に立ち向かい、救援や捜索に当たられた各県の関係者始め自衛隊、消防、警察、医療関係者、捜索の結果を待つ遺族に終始寄り添われた保健師の方々に、感謝をこめ敬意を表します。

 

皇后さま79歳 回答全文【東京新聞 2013年10月20日】

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 79歳の誕生日に際し、皇后さまが宮内記者会の質問に回答された文書の全文は次の通り。

―東日本大震災は発生から2年半が過ぎましたが、なお課題は山積です。一方で、皇族が出席されたIOC総会で2020年夏季五輪・パラリンピックの東京開催が決まるなど明るい出来事がありました。皇后さまにとってのこの一年、印象に残った出来事やご感想をお聞かせ下さい。

 この十月で、東日本大震災から既に二年七か月以上になりますが、避難者は今も二十八万人を超えており、被災された方々のその後の日々を案じています。

 七月には、福島第一原発原子炉建屋の爆発の折、現場で指揮に当たった吉田元所長が亡くなりました。その死を悼むとともに、今も作業現場で働く人々の安全を祈っています。大震災とその後の日々が、次第に過去として遠ざかっていく中、どこまでも被災した地域の人々に寄り添う気持ちを持ち続けなければと思っています。

 今年は十月に入り、ようやく朝夕に涼しさを感じるようになりました。夏が異常に長く、暑く、又、かつてなかった程の激しい豪雨や突風、日本ではこれまで稀な現象であった竜巻等が各地で発生し、時に人命を奪い、人々の生活に予想もしなかった不便や損害をもたらすという悲しい出来事が相次いで起こりました。この回答を準備している今も、台風26号が北上し、伊豆大島に死者、行方不明者多数が出ており、深く案じています。世界の各地でも異常気象による災害が多く、この元にあるといわれている地球温暖化の問題を、今までにも増して強く認識させられた一年でした。

 五月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら、かつて、あきる野市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治二十二年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、二百四条が書かれており、地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも四十数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た十九世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。

 オリンピック、パラリンピックの東京開催の決定は、当日早朝の中継放送で知りました。関係者の大きな努力が報われ、東京が七年後の開催地と決まった今、その成功を心から願っています。

 世界のあちこちで今年も内戦やテロにより、多くの人が生命を失い、又、傷つけられました。取り分けアルジェリアで、武装勢力により「日揮」の関係者が殺害された事件は、大きな衝撃でした。国内では戦後の復興期、成長期に造られた建造物の多くに老朽化が進んでいるということで、事故につながる可能性のあることを非常に心配しています。

 この一年も多くの親しい方たちが亡くなりました。阪神淡路大震災の時の日本看護協会会長・見藤隆子さん、暮しの手帖を創刊された大橋鎮子さん、日本における女性の人権の尊重を新憲法に反映させたベアテ・ゴードンさん、映像の世界で大きな貢献をされた高野悦子さん等、私の少し前を歩いておられた方々を失い、改めてその御生涯と、生き抜かれた時代を思っています。

 先の大戦中、イタリア戦線で片腕を失い、後、連邦議会上院議員として多くの米国人に敬愛された日系人ダニエル・イノウエさんや、陛下とご一緒に沖縄につき沢山のお教えを頂いた外間守善さん、芸術の世界に大きな業績を残された河竹登志夫さんや三善晃さんともお別れせねばなりませんでした。

 この十月には、伊勢神宮で二十年ぶりの御遷宮が行われました。何年にもわたる関係者の計り知れぬ努力により、滞りなくせんぎよ遷御になり、悦ばしく有り難いことでございました。御高齢にかかわらず、陛下の姉宮でいらっしゃる池田厚子様が、神宮祭主として前回に次ぐ二度目の御奉仕を遊ばし、その許で長女の清子も、臨時祭主としてご一緒に務めさせて頂きました。清子が祭主様をお支えするという、尊く大切なお役を果たすことが出来、今、深く安堵しております。

―今年、皇后さまはご体調が優れず、いくつかのご公務などをお取りやめになりました。天皇陛下も今年80歳を迎えられます。両陛下の現在のご体調や健康管理、ご公務や宮中祭祀に関してご負担軽減が必要との意見について、どのようにお考えでしょうか。

 加齢と共に、四肢に痛みや痺れが出るようになり、今年、数回にわたり公務への出席を欠きました。体調の不良を公にすることは、決して本意ではありませんが、欠席の理由を説明せねばならず、そのため大勢の方に心配をかけることとなり心苦しく思っています。健康管理については、医師の意見に従い、その時々に必要な検査を受けていますが、まだ投薬などの治療を継続して受ける段階のものはなく、これからもしばらくは、今までとあまり変わりなく過ごしていけるのではないでしょうか。

 質問にあった宮中祭祀のことですが、最近は身体的な困難から、以前のように年間全てのお祀りに出席することは出来なくなりました。せめて年始の元始祭、昭和天皇、香淳皇后の例祭を始め、年間少なくとも五、六回のお参りは務めたいと願っています。明治天皇が「昔の手ぶり」を忘れないようにと、御製で仰せになっているように、昔ながらの所作に心を込めることが、祭祀には大切ではないかと思い、だんだんと年をとっても、繰り返し大前に参らせて頂く緊張感の中で、そうした所作を体が覚えていてほしい、という気持ちがあります。さき前の御代からお受けしたものを、精一杯次の時代まで運ぶ者でありたいと願っています。

―皇太子妃雅子さまは十一年ぶりに公式に外国をご訪問になりました。また、悠仁さまの小学校入学をはじめ、お孫さまたちに節目となる出来事が相次ぎました。ご家族と様々なご交流があると思いますが、皇室の一員として若い世代に期待されていることをお聞かせください。

 皇太子妃がオランダ訪問を果たし、元気に帰国したことは、本当に喜ばしいことでした。その後も皇太子と共に被災地を訪問したり式典に出席する等、よい状態が続いていることをうれしく思っています。

 孫の世代も、それぞれ成長し、眞子は大学の最高学年に進み、今では、成年皇族としての務めも行っています。こうした二つの立場を、緊張しながらも誠実に果たしている姿を、うれしく見守っています。次女の佳子は大学生になり、今年は初めての一人での海外滞在も経験しました。来年ははたち二十歳になり、皇室はまた一人、若々しい成年皇族を迎えます。東宮では愛子が六年生になりました。背も随分伸び、もうじき私の背を超すでしょう。チェロ奏者の一員として、皇太子と共にオーケストラに参加したり、今年の沼津の遠泳ではやや苦手であった水泳でも努力を重ね、自分の目標を達成したことをうれしく、又、いとおしく思いました。悠仁は小学生になりました。草原を走り回る姿はまだとても幼く見えますが、年齢に応じた経験を重ね、その中で少しずつ、自分の立場を自覚していくようにという両親の願いの許で、今はのびのびと育てられています。

 こうした若い世代の成長に期待すると共に、私にはご高齢の三笠宮同妃両殿下が、幾たびかの御不例の折にも、その都度それを克服なさり、今もお健やかにお過ごしのことが本当に心強く、有り難いことに思われます。これからも両殿下のご健康が長く保たれ、私どもや後に続く世代の生き方を見守って頂きたいと願っています。